Dentalism No.8
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 修善寺温泉『あさば』には、凡そ何も無い。最初から何も無かったのではなく、人間のありさまを見極めるごとく、あれもこれもを削いで削いで削ぎつくした結果の豊穣な空白が満ち満ちている。余計なものが一切無く、しかも十全に満ち足りているというのは驚くべきことである。まさに〈知の極み〉とでもいえる稠密な世界が、あさばという宿には在った。 こういう場所ではなにもしないのが正しい。一泊、私は、湯につかり、食べて、また湯につかり、寝て、起きて、また食べる。それだけのことをしたに過ぎないが、そうした過ごし方がいかに大切なものであるかに気づかされるのも、あさばならではである。 いきとどいたしつらいや、こまやかなサービスのあれこれを書きつらねても詮無いことだ。女将の含羞、若主人の毅然、支配人の頑固、客室係の呼吸。いずれもたいそう好もしいものであったが、それ以上に感服したのは、〈肝心〉に真っ直ぐに向かい合うという潔さが館内の隅々にまで行き渡っていることだった。とりわけ料理にそのことがよくあらわれていた。特段の飾り付けはまったくない。素いつか訪れたい場所田沢山の自然を背景として、約600坪の古池に浮かぶ能舞台「月桂殿」。明治時代後期に、東京・深川の富岡八幡宮から移築したものだ。ここでは、能や新内などが定期的に行われる。あさば五二〇余年の歴史を誇る、修善寺屈指の老舗旅館『あさば』。緑深い樹林を背に静謐に浮かび上がる、能舞台の幽玄。Asaba文=林 俊介 写真=雨田芳明20

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